教育と社会の変化

2014年、日本では『アナと雪の女王』が歴史的なヒットとなったが

今から25年前、1989年のイタリアで最も多く観客を動員した映画は学校教育の映画だった。

当時イタリアの公立学校では映画教室・映画授業というものをしないなか、この映画のみは全校授業を休んで観に行った。

そして学校で観に行った我が子に負けてはならぬと親まで観に行ったのがこの映画の観客動員数が年間1位にもなった理由である。

 

題名は各国で異なるが『いまを生きる』『つかの間の幸せをつかめ』。

 

ストーリーの内容は「すべてのことには多方面のアプローチの仕方があって、一面から捕えてわかったような気になるのは頭脳の怠慢である。」ということを17歳の生徒たちに伝えていく先生の物語である。

 

主人公の先生は進学することのみに集中した厳格な進学校で17歳の教え子たちに、あらゆる機会を利用して、自分の頭で考え自分の心で感じることの大切さを教えていく。

 

有名大学進学で凝り固まった彼らの心を、多感な感受性豊かなものへとひらかせていく。

この映画は単なる学園モノではなく、心がひらくことで生まれる可能性への追求を表現した映画であったと思う。

 

クラス、そして各個人に対してオーダーメイド型に対応(対話)していくこの教育法は教える側が自分の頭で考え、生徒たち一人一人の、また集団においての隠された欲求を刺激しなければできない教育法である。

 

自らの全人格を向き合う一人一人の生徒にふさわしいカタチでぶつけることを1つのクラスだけでなく、5つや6つのクラスで一日に行うことの難しさは、カリキュラムを順に消化していく方法と比べ物にならないものであろう。

 

結局この映画の主人公も多くの学園モノの作品と同じように学校を出ることになる。

 

当時、作家の塩野七生さんはこの映画を観て

「主人公に教場を与える学校はない。学校で「骨」を教わり、その「骨」に「血と肉」をつける。それが教科書以外の書物が担う役割の一つならば彼は作家になるしかない」

 

という言葉でしめている。

 

25年たった今、僕らが少しだけ希望が持てるのはこの映画の主人公が目指した世界の表現方法が決して簡単ではないが多彩に生まれてきたことである。

 

例えば「学び合い」とは単に、子どもが子どもに双方に教えあう、生徒が教える側に回ることで生まれる好循環というだけではない。

 

教える側が教える際にある程度イメージした変化や答え、想定していた範囲を教わる側が超えていくことで、教える側が逆に教わる側から学ぶ機会が生まれていくという、互いに学び成長していく場が生まれていくことである。

 

 

イメージ通り、想定通りできた時ほど自分の範囲の中でしてしまっていなかったか反省の中、自問自答することが大事な教育である。