天才が陥りやすい罠

【天才が陥りやすいわな(何故、天才のままで終わってしまう天才が存在するのか)】

清原和博選手はプロ野球選手一年目に31本ものホームランを放った。新人としては大洋ホーエルズ伝説の優勝メンバーの一人桑田武選手が持っていた新人記録を抜き、新人選手の記録としてはダントツである。だが多くの人が知るようにそれ以降、タイトルはおろか、一シーズン40本をこえるホームランを放つこともなくプロ野球選手生活を終えることとなる。

野球に限らず、色んな競技や業界にこのような例が時々みられる。

その際には概ね理由となるところは2つにわけてみられるように思う。


1つ目は単に天賦の才には恵まれていたが継続する才能(人間性、コミュニケーション能力、適応力といった総合力)が育まれなかったタイプである。

ただ、今回はこちらについては言及しない。

そして2つ目は清原和博選手がそうであったように「悟りの境地」を一度感じてしまった選手である。

この「悟りの境地」とは、一般社会で「〇〇の神様」と呼ばれる人々のようにかなりの年齢になって掴んだならばそれこそ多くの人々に讃えられるようなものである。

この人生の後半こそ掴む感覚を、何人かの天才選手は幼い日よりひたすらに誰よりも努力したからこそ20歳そこそこでたどり着いてしまう。

ここが大きな分岐点となる。

「悟りの境地」の感覚とはそれさえ守れば概ねうまくいく心地良い感覚である。
簡単にいえばイメージ通りにできてしまう感覚、自分の力以上のものが働く感覚である。
だから多くの選手はそれを最優先に大事にしてしまう。

自分の身体との会話や自分のうちからくる情報の受け取り・・・

そういった肉体を鍛えるというよりも、体内からめぐる情報やイメージ、身体感覚を大事にしていく。

肉体を鍛える時も、それが第一前提でおこなわれる。

そしてこれが大きな罠なのだ。
常に掴んだその「悟りの境地」とも呼べる感覚を大事にするというのは、心地良い状態の中に身をおくということである。

そしてそれさえ大事にしていれば、基本的にそれでイメージ通りにできてしまうのだ。

清原和博選手も一年目の当初は苦しんでいた、その中で3割を超える打率にホームラン31本という成績は後半部分の追い上げが大きかったと記憶している。


そして彼はその一年目の後半時に「悟りの境地」とも呼べる感覚を一度掴んだのではないかと思う。

一度掴んでしまうとはなしたくなく、その部分を優先してしまう。そうすると自ずと限界を超えるトレーニングというものが減っていく。

極端にいえば、もう素振りや走りこみも必要以上にする必要性を感じられなくなってしまう。

これこそ天才だからこそ陥ってしまうわなである。

常人ならばたどり着かない感覚に身をおいたものだけが陥る罠なのだ。

成績の上下はそこまでひどくはないかもしれないが壁をいつまでも破れずに、天才のまま選手生命を終えてしまう。

そしてその中で世間はさらなる成績や数字を求め、時に壊れてしまうという現象と常に隣り合わせでいる。

ロンドン五輪に出場した日本代表選手の中にもこのわなにはまってしまっている選手は何人かいる。

そしてこのわなの中にいると外からの吸収にとても弱くなってしまっている。
わなから抜けられる手があるとすれば同じ所属チームの格下選手の進化だけだろう。

同じ環境の中にいる選手がわなに陥ってしまっている天才をこえることが必要なのだ。

違うチーム、違う環境から別の天才の弾頭は清原和博選手がそうであったように、よりそのようなわなにはまってしまっている選手を深刻にさせていく。


そんな中、そういう感覚を何度も手に入れながら罠に陥ることのない選手が日本人でも登場している。

本田圭佑選手である。

彼は何度もその感覚を掴みながら、さらなる上を目指し、何度も自分から壊し、捨てていく。

自分の最も良い状態を「自分は更に上にいかなければいけない人間だ」と捨ててしまえる勇気と覚悟、そして責任を持ち、進化し続けていく。
心地良い感覚。天才だからこそ手に入れることのできる身体のうちのうちからえる情報を競技に活かす能力。イメージ通りに物事を進めることのできる調和した整った感覚を彼は自分から捨て、更に上を目指したトレーニングを実現できる。

掴んだ感覚の更なる上、そのための過酷なトレーニング。


口でいうには、「悟りの境地」を知らない常人にはわからないすごい壁を彼は乗り越え続ける。

「悟りの境地」のわなのけがある香川真司選手が本田圭佑選手からこれからどう吸収していくかが個人的には注目ポイントである。