人類の進化と野球

【スポーツとして昇華されているホモサピエンスの大きな一歩】

ネアンデルタール人と比べても、体格、筋力、気候対応力と多くの面で劣勢であったホモサピエンス。

そんな中、何故ネアンデルタール人ではなくホモサピエンスがここまで残りひろがっていったのか。

その大きな理由として他の生物ではトビウオぐらいしか持ち得ない「遠距離攻撃」=投げるということがあげられている。

そしてそれがホモサピエンスが世界各地に活動の場をひろげていったグレートジャーニーという大いなる一歩につながっていったこと、投げるという複雑な行為が人間の脳を発達させ、一人一人のコミュニティ把握能力を30人あまりから150人あまりまで把握できるまでに拡大につながったこと。

コミュニティの絶対数の増加が発明の拡大と発展につながっていったこと、そしてさらにより遠くに投げることができることによって制裁が強化され、物理的にも統率の範囲がひろがっていき掟から法へと現代社会に大きくつながっていったことがいわれている。

そうしたことから一つの仮説が浮かんでくる。

「スポーツの一部は我々の大きな一歩の原点が今に残る形なのではないだろうか」と。

例えば野球というスポーツは人類の発展を支えた、投げるという行為は勿論のこと、相手を制する「牽制」というものもあり、人類の大いなる記憶からつくられているのではないかと感じずに入られない。

そうではないにしても日常から非日常になってしまった大切な行為を補完する役割があるのではないだろうか?

日本の国技の一つに相撲がある。木の文化を持ち、生活主体が「引く」である日本人は「押す」ことが非日常的であり、その非日常的な「押す」を補完するのが相撲である。

人類の発展も文化の発展も「ないもの」を何かで補完することという点において共通しているように感じる。

日本の小学生の体力テストでは毎年、「投げる」項目だけが下がり続けている。

ホモサピエンスの大いなる第一歩となったこの「投げる」が下がり続けていることの意味を考えていくことでみえてくる未来があるのだろう。